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2004/01/23: "にごり酒 濁れる飲みて・・・"
修平さんが幻の吟醸酒をぶら下げて遊びに来てくれたので、午後の2時から雪見酒とは相成ってしまいました。
世間の皆さんが仕事をしている時間に、明るいうちから小皿に盛った手作りの肴を並べ立て、さらに外の吹雪を肴に加えて大吟醸をグラスからちびりちびり、合間に塩辛を一箸、蕨の煮物を一口・・・なんてのは何だか悪事を働いているような気分になって、実にいい感じです。
「にごり酒 濁れる飲みて、草枕しばしなぐさむ」を気取って、二人で盛り上がっていたら、鶴岡帰りの某N氏が顔を出してくれたので大吟醸をお勧めしたのですが、「いやいや、車だから・・・。」などと言って、妻が焼いたベーグルを食いながらコーヒーを飲んでました。
で、写真が趣味でニコンの最新機種をお使いの修平さんは、「大井沢には撮るようなところが無い。 特に冬は駄目だ。」などとおっしゃいます。
大井沢で生まれ、大井沢に住み、大井沢で80年を過ごしてきた人にとっては、私が感動しまくっている大井沢のあれやこれやなんてのは、あまりにも当たり前過ぎて面白くも何ともないらしいんです。
もっとも、私や家族は「雪が降った。」と言っては喜び、「月山が見える。」と言っては喜んでいるのですから、ここの人たちにして見れば、我々の方が極め付きの「変な連中」に違いありません。
そんな訳で、どういう訳か、柳宗悦の「民藝」を連想してしまいました。(劇団「民芸」じゃありません。)
私のような柳宗悦言うところの「一般民衆」にしてみれば、浜田庄司や宮本憲吉、バーナード・リーチなどの陶器類を「日常雑器」として使うなんてのはとんでもないことで、そりゃあ、李朝白磁は素晴らしいけど、これが一般民衆の使う雑器だなどとはとても思えなくて、彼が唱える「雑器の美」なんて、極めて嘘っぽく聞こえてきます。
昔から「いい物」は高額だった訳で、そんな物を「雑器」として日常的に使えた階級は絶対に「一般民衆」などではなかった訳で、それでもそれらの人たちを「一般民衆」などと呼んでしまう柳宗悦の気取りが気に入らないですね。
魯山人が彼を嫌った理由が分かるような気もします。(彼が魯山人を嫌ったんだっけ?)
(どうやら、柳宗悦の民藝運動って、日常使うものに対するこだわりが伝統美の水準を保ち、美意識を育て、職人の技術レベルを上げ・・・みたいなことだったとは思いますが。)
で、そんな事はどうでもよくて、あまりにも当たり前で当たり前すぎるようなことに感動し、美しさを発見し・・・なんてのはやはり無理があって嘘っぽいんじゃないかと思う訳です。 柳宗悦だって、自分ちの飯茶碗や湯飲みに感動してた訳じゃないんでしょ?
そういう意味では修平さんの言うことは至極もっともな事な訳で、私も六本木で感動を発見するのはほぼ不可能だし、故郷の風景だって、懐かしさはあっても何もかもが当たり前の事ばかりだし。
さて、10年後にも私が大井沢で感動して面白がっているかどうかは我ながら興味のあるところです。 そのころには、もはや「草枕」を気取っている訳にも行かないでしょうし。