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2003/08/18: "アクアリウム"
ふと気が付くと、部屋の床には6月に阿寒湖で使ったリールやロッドがケースから出されもせず、手入れもされずに放り出されたまま散乱しています。
放り出しているのは私なので、いつも「今日こそは片付けなくては・・・。」と思っているのですが。
こんなに寒いのは大井沢だけに違いない、と的外れの誇らしい気分で居たのに、妻の親戚の不幸で福島県のいわき市を訪れたら、ここ同様の涼しさだったので自慢のネタが無くなって少しがっかりしました。
大井沢に住み、大井沢の習慣、常識、知識、教養、知性、理性、ノウハウ、付き合い・・・そしてこの空間だけがかもし出す特有の雰囲気、特有の生活観ですっかり完結してしまっていると外の世界への興味が極めて希薄になってしまうようです。
ま、そんな風に「内」だの「外」だのと世の中を区別しているのは私だけなんでしょうが、ニューヨークの大停電が何で大騒ぎするほどのニュースなのかもピンと来ないし、お隣の宮城県の地震でさえまるで他人事だし。
そんなことよりも、トウモロコシのタヌキ対策や床下に住み着いているらしいハクビシンやアナグマの方がよほど重大な問題な訳で、そんな日常をノーテンキに過ごしていると異常気象も地球温暖化もニューヨークの大停電も大塚商会の株価もWindowsがらみのウイルスも全てが「外」のことになってしまいます。
毎日毎日、朝から晩までNHKが放映している甲子園の高校野球やヤンキースの松井情報でさえ、「わざわざ放送するほどのことでもことでも無いだろうに・・・」と理不尽ささえ覚えます。 どこから出場しているかも分からないような高校のたかが野球試合などを放映するほどのヒマがあるんだったら、「Edogawa Sullivan Show」の再放送でもしてもらいたいものです。
それはそれとして、戸数100、人口300の小さくてとても気持ちのいい空間では何事も過激にも先鋭にもならず、それはまるでアクアリウムのようです。
アクアリウムそのものが仮想世界なのに、ここは更に仮想のアクアリウム。
空でさえ北端は月山まで、南端は朝日連峰までと分かりやすく仕切られ、その先の広がりなど気にしたこともありません。 井の中の蛙はもちろん大海を知らないでしょうが、井戸の底から見る空だって丸く(四角かな?)小さな区切りのあるものだけ。 蛙にとってはその丸(四角)くて小さな空が全ての空なんでしょうね。
井戸に住み着いた蛙が得る情報は必然的に制限され、蛙はその制限された情報を基に世界を判断しているのでしょうが、私の場合は別に情報から隔離されている訳でもなく、都会同様の質とl量ではないにしても、ほぼリアルタイムに入手することが出来る訳です。
情報格差(IT業界的には「デジタルデイバイド」?)などと、まるでそんな被害を受けている人々でも居るかのような表現を聞いたりもしますが、私から見ればそれは地域的な問題ではなくて個人自らが情報を「遮断」あるいは「取捨選択」しているに過ぎないような気がしたりもします。
(「デジタルデイバイド」って、お為ごかしの脅迫広告そのもののようなニュアンスですね。 いや、脅迫そのものか。)
それにしても、東京に住んでいるころに感じ続けていたあの焦燥感のようなものは何だったんでしょう。
常に何かに追われているような、追いかけているような、全てのニュースに切迫感があって、全てが身近で、全てが自分の生活に直結しているような錯覚と強迫観念って、強弱は別にしても私だけではなく都会で生活している人たちの共通した症状じゃないんでしょうか。
私の場合は、噂だろうがスキャンダルだろうが、人の知らない情報を多く持っているヤツほどエライ、みたいな世界に長く居過ぎたかも知れません。
という訳で、どうやら「井の中の蛙」という蛙は情報格差が要因で突然変異的に発生するのではなくて、物理的な空間の狭さが原因の後天的な特徴を持った蛙のようです。
しかも、この蛙は成長すると「山椒魚」になっちゃうんですね。
アクアリウムの中のオオサンショウウオなんて、かなりグロテスクです。 せいぜい気を付けなきゃ・・・。
シュレーゲルアオガエル辺りで成長を止めたいものです。