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2003/12/01: "公団住宅と我が家の間取りの関係"
今月から来年3月まで、我が家が原部落の「年番」です。
「年番」の基本的な役割は毎月1回の部落常会の場所を提供することで、あとは共同作業の参加者リスト作り程度。
昨夜は、その引継ぎのために町内会長、副会長、隣組長、11月までの年番の方など6人が我が家に集まりました。
我が家の構造は、この部落の集会のように大勢の人が一度に集まることを全く想定していない間取りな訳で、少し不便を感じることになりました。
伝統的な日本住宅の構造はほぼ決まっているような気がします。
玄関、廊下、客間、座敷、居間、台所といったところが基本要素で、客間と座敷は庭に面していてどちらかといえばハレの場所。
来客は人数の多少にも親しさの度合いにも関係なく、必ず客間か座敷で対応され、居間に通されることは例外的なケースだったはずです。 子供の頃、母の実家を訪ねても叔父の家族がくつろいでいる居間に通されることはほとんどありませんでしたし、台所や水場周りに足を踏み入れるなんてことは一種のタブーでした。
農家の場合は囲炉裏を中央に据えた板の間があり、その横に台所や食事をする場所があり、板の間の奥にはいくつかの座敷や納戸が続くといったような構造が平均的なものだったのではないでしょうか。
私が育った家も上の様な農家でしたが、気の張らない人や部落の人たちには囲炉裏のある板の間で応対し、座敷を使用するのは改まった気の張る客の訪問を受けたときか冠婚葬祭、盆、正月、祭礼の様な行事のあるときだけでした。(客の居ないときは子供たちの格好の遊び場ではありましたが。)
この辺りの住宅も、少なくても私が訪問した家の全てに囲炉裏のある板の間(今ではストーブが置かれ、カーペットが敷き詰められている家がほとんどですが)あって、座敷のある家がほとんどです。 最近建てられた家でも基本的な構造は変わらず、必ず座敷あるいは客間があるようです。
この様な家の間取りには社会的な必然性があって、しかも日本人が持っている「自」と「他」、「私」と「公」、家庭と外部コミュニテイなどとの間に境界を設けようとする伝統的な意識の現れでもあったと思います。 それは、多分、プライバシーを守るとか「個」を尊重するとかと言ったような意識とは別物で、訪問客に対する尊敬の念を表現するための道具立てでもあったとは思いますが。
ところが、私の家の間取りはその辺のことを全く意識されていないんです。
家の間取りを考えたとき、客間、応接間、座敷などという言葉はもちろんのこと、「訪問客に対する尊敬の念」なんてのも全く思い出しませんでした。
来客があることを想定しなかった訳ではないのですが、その客を家族の生活空間から切り離した場所で応接するなどという発想も意識も皆無だった訳です。
自分が育った家も私を取り巻いていた社会の家々も、全てが座敷のある同じような構造の家だったにも関わらず、それらのことをすっかり忘れていました。
もちろん、今でも私の家に応接間や座敷が必要だなどとは思っていないのですが、何の疑問も持たずに今の家を建ててしまったことが少し不思議でした。
私が東京で住んでいた分譲アパートの間取りがそうでした。 玄関を入るとすぐにリビング・ダイニングキッチンになり、その横に寝室が幾つか並んでいるといった極めて平凡な間取りだった訳ですが、狭さには困っていてもそれを変だとは思いませんでした。
分譲アパートの平均的な間取りが日本の伝統的なものから離れて、あんな風になってしまったのはなぜなのか、いつ頃からなんだろう、と思ったら、すぐに「公団住宅」が思い浮かびました。
公団住宅は絶対に訪問客などと言うものを想定してはいないでしょうね。
その公団住宅の設計思想が、その後に続いた民間の分譲アパートに決定的な影響を与えたような気してなりません。
で、私も長年のそんなアパート住まいに飼いならされてしまって、何の疑問も持たずに今の家を建ててしまったんでしょう。
都会の家の役割は外部社会を遮断して個人の生活を守ることに重点が置かれているのかもしれません。 決して最初からそれを目的にしていた訳ではなくて、それは公団住宅の様な悲劇的な構造の(あるいは最低限の機能きり持たない)アパート群がもたらした「結果」に過ぎないのかもしれません。
だとすれば、まさにハードウエアがソフトウエアを変えてしまったと言う事になり、本来なら生活習慣から住宅の構造が決まるはずなのに、住宅の構造が我々の生活習慣や意識にまでも変化を与えてしまったということになります。
ま、変わってしまったライフスタイルが居心地のいいものであれば、それはそれで否定する理由は何も無くて、今の我が家にはすっかり満足はしているのですが。
とは言っても、今月から月に一度、20人近くの方々が我が家に集まって会議をするんです。 嫌がっている訳ではなくて、完全に想定外のことなので戸惑っています。
話は別になりますけど、よくテレビ番組などで見る「田舎暮らし」には、地元の人たちと集まって酒を酌み交わし、楽しく盛り上がっている場面が登場しますけど、どうやら、あんなことは年がら年中でもないし、長続きもしないようですね。 どっかに無理が出てくるんでしょう。
一昨夜のNHK教育テレビでイギリスの田舎暮らしを放送していましたが、そこに移住した都会人だけではなく、古くから住んでいる人たちや古い家での暮らしぶりなどが紹介されていて、とても面白かったです。
特に住宅に対する意識の違いに興味を覚えました。
日本の住宅は20〜30年で寿命の来る「耐久消費財」的位置付けの様な印象ですが、番組で紹介されたイギリスの農村を見る限りでは、住宅はインフラストラクチャーの中心にあるような印象を受けました。
1軒の家に300年も住み続けられたら、日本でも少しはゆとりのある生活に変わって行くような気もするんですが・・・。