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2005/06/08: "<だし>と田舎暮らしと田舎者の暮らしと・・・"
山形の郷土料理だと言うんですが、<だし>と呼ばれる料理と言えるかどうかちょっと微妙な料理があります。
そのまま食べたり、納豆のようにご飯にぶっ掛けたり、冷奴に乗せたりして食べるようです。
レシピが簡単です。 夏野菜を細かく刻んで、市販の<納豆こんぶ>と称する昆布の粗い粉末を加え、醤油などで適当に味を付けます。 一晩くらい冷蔵庫に放置してからの方が、素材になじみが出ておいしくなるようです。
今回の<だし>は、アカミズ、玉ねぎ(必須)、胡瓜、茄子、セロリです。 西洋野菜のセロリにはちょっと違和感があって、これは失敗です。
最近、立て続けに<田舎暮らし>の話をさせられました。
東京の大企業の社員研修のゲスト講師だったり、住宅情報誌の電話取材だったりなんですが、どうも先方が期待していることと私が話すこととの間にかなり大きなギャップがあったようです。
<田舎暮らし>と言う言葉そのものに違和感があります。 <田舎暮らし>の定義は、どうやら「都会に住んでいた人間が、<田舎>と呼ばれる地域に移住して暮らすこと」のようで、もともと田舎で生まれ育った人間がそのまま定住している場合は<田舎暮らし>とは言わないようなんです。
田舎で生まれて田舎で育ち、そのまま田舎で暮らしている人のことは<田舎者>などと言うらしいのですが、私から見れば田舎出身の都会人こそが正に<田舎者>と呼ばれるべき存在です。 特に東京の、あの異文化に対する許容範囲の広さ、柔軟さは自分たちの価値観や育った文化に対する劣等感の現われそのものです。 要するに、地方出身者つまり<田舎者>だからこその自信の無さ、価値に対する判断基準の無さ、さらには自分の出身地に対する一種の後ろめたさのようなものがあって、あえてその場での判断は避け、とりあえずは受け入れてみる・・・と言うのが東京で暮らす地方出身者の特性のような気がします。
私はその<田舎者>の典型だと思います。 ま、無責任でいい加減な人間なので、自分が育った環境に対する後ろめたさなんてのは全く無いのですが、同時に誇りもこだわりもありません。 だからこそ大井沢に暮らしながらもフロンドリーブのパンパーニッケルにダナブルーとアンチョビーを乗せて食うような生活を続けているんだと思います。
都会の人たちが持っている<田舎暮らし>のイメージって、分かるようで分かりません。
私にとっては東京都港区六本木での生活の延長上に山形県西村山郡西川町大井沢での暮らしがあるだけで、特別なものでも何でもないのですが、それを特別なものとして捉えられることには違和感があって、どうも落ち着きません。
私のような田舎者が田舎で暮らすことは、一般に言われるような<田舎暮らし>とは違うと思うんだけどなあ・・・。