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2005/06/27: "風葬"
北海道の川や湖に入って釣りをしていると、極めて濃密な野生を感じます。
阿寒湖のヤイタイやオンネナイの岸に立っていても、いつも何かに監視されているような気配に圧倒されることがあります。 忠類川の上流などでも同様です。
阿寒川の岸に、真っ白なエゾシカの頭骨がありました。 まるで風葬のように見えますが、雪解けの増水で上流から流されて来たものかも知れません。 小さくて角も無く、メスか小鹿のようです。
車から降り、阿寒川の岸辺に立つと一瞬ですが森に充満する濃密な野生の雰囲気に気持ちがひるみます。 国道を走る車の音が聞こえていても、そこにはヒグマが居て、エゾシカの群れが居ます。 川岸には獣道が延々と続いています。
阿寒川では、熊が一晩を過ごしたと思われる跡やシカの死体をそこここで頻繁に見かけます。 倒れて腐った巨木の幹にナナカマドの大木が生えていたりします。 ここでは、人の生活とは無関係に進行している自然の命の現在形と過去形を同時に見ることができます。 水面が割れなくても、思うような魚が釣れなくても、そこに居るだけで気持ちが満たされてしまいそうになります。 人はやっぱり、自然を恐れ、自然を敬い、もっとひっそりと謙虚に生きなければいけないような、柄にも無くそんな気持ちになったります。 我々の先祖が自然や木々や動物の中に人間を超越した神々を見たのも当然のことのように思えてきます。
もっとも、羽田に降りたとたんにそんなことはすっかり忘れ、「今夜は麻布十番の<あべちゃん>で・・・。」とか「六本木 香妃苑の鶏煮込みソバの味が落ちたなんて言われてるけど・・・。」とか「今月のVisaの引き落としは大丈夫だったかな・・・。」などと頭の中は雑念で充満していることになるんですが。
(私が阿寒を離れた翌日に、石坂さんは阿寒川の流れで遊ぶ2頭の小熊を写真に撮っています。 すぐ近くに母親が居たのでしょうが、そんな場面に出くわしたら私もデジカメを取り出していたことと思います。)
と、まあ、そんな訳で、人間、謙虚に生きるには、やっぱし年に1度や2度は北海道に行って釣りをしなきゃいけないなあ・・・などと思うわけです。 これは旅費や滞在費云々の問題ではない、ということを家族が理解してくれるかどうかが大きな問題なんですけど・・・。
本当にしばらくぶりの雨です。 気温は17℃、半そでのTシャツでは寒いほどです。